今回、私は「教務参与」の立場から、この巻頭言を書かせていただきます。「教務参与」とは、金光教教規に「教務全般に関し、評議にあずかり、意見を開申する」と定められています。教会にいながら、教団の動きに対して目を向けていくというお役目ですが、これはなかなか難しいことだと感じています。教団状況が厳しいということは教会にいても感じますが、何をどうしたらよいのかとなると、なかなかつかめません。
私が教師になったのは40年前です。その頃から徐々に教団は勢いを失い始めており、教団中央ではその状況をなんとか挽回しようと、さまざまな手立てが講じられていました。
青年教師を集めてくださったある会合に出席した時のことです。先輩の先生から、「教団は一艘の大きな船のようなものである。今、その船は転覆するかもしれないというのに、君たちは自分の船室だけを守ろうとしている」と、大きな喝を入れられ、私は身が引き締まる思いがしました。折に触れてその言葉を思い出し、自分の教会のことだけを考えるようではいけないと自戒してきました。
しかし橋本美智雄教務総長は、令和6年の教団独立記念祭時のあいさつで「教団はよく一艘の大きな船のようにイメージされますが、緩やかな横のつながりをもって同じ『明い方へ』と航海する大船団のようなイメージの方が、本教には当てはまる」と話されました。私は、なるほどと思いました。
本教は一つ一つの教会がそれぞれ一つの船であり、まずは自分の船をしっかり操縦し、守っていくことが大切なのだと思います。しかしながら、最近は外海の波も荒く、自分の船でさえ、どう操縦してよいのか、またどこへ向かえばよいのかが分からなくなっているようにも感じます。
私は改めて、教会とは何か、教団とは何か、と考えてみました。その時、教会も教団も教祖様の時代にはなかったものだからこそ迷うのではないか、ということに気付きました。お広前の在り方は教祖様のお広前を基準にすればよいのですが、教会や教団は、そのイメージをつかみにくいのです。
高橋正雄先生の『道を求めて』という本の中に、次のような一文があります。「この団体(教団)はあなた(教祖様)には、おいりようがなかったものを、私らが私らのために作らせていただいたものであります。私らは今、根本的に、このことを考えてみねばならないことになってまいりました」と始まり、「どうぞ私らをあなた様のお光でお照らしくださいまして、あなたに従わせてくださるようお願い申し上げます」との祈りをささげておられます。
今、この金光教という船団は、心を一つにしてこの祈りをささげ、今どうすべきかの光を頂いていくことが大切なのではないかと思っています。
教務参与 浅野弓