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戦わない正義

教祖様がお道開きの初めのころ、山伏の布教妨害に遭われたことはよく知られています。その時、お道の信心からいえば正しいことであっても、山伏の資格を持たない者が同様の行為をしているのですから、妨害する山伏の側にも正義があります。教祖御事績の中に、このような妨害をした山伏自身が語った言葉が伝えられています。

「若い時に児島五流の尊滝院へ修行に行っておって、再々大谷金光大権現の広前を荒らしに出かけたものである。実は物取りに行ったのではない。何とかしてやめさせたい、困らせてやろうというのが本意で、5~7人も打ち連れて行く。今日こそ腹の癒えるまでやっつけてやろうと、腕を鳴らして乗り込む。そして頭から押しつけ、畳みかけて、悪口のありったけ、理屈の底を叩くまで攻め込んでも、大権現は1言半句も返答もしない。どこを風が吹くかとさえも思わぬらしい。ただ、にこりにこりと笑っているのみで、少しも張り合いがない。〈中略〉

いよいよいまいましくなって、前よりも一層荒らして帰る。が、結果は前のとおりで、石鎚を一息にしのぐような者でも、これには懲りて、初めのうちは自分が行くと先を争うたものの、後にはだんだん逡巡(しゅんじゅん)する者のみとなって、いつしか金神退治も沙汰やみとなってしまいました。」(紀要『金光教学』31号現代表記に訂正)

教祖様は、この時の心境と思われる内容を、難波教会初代の近藤藤守先生に「信心する人は、人に頭をたたかれても、『私の頭は痛みませんが、あなたの手は痛みませんか』という心になり、また、頭から小便かけられても、ぬくい雨が降って来たと思えばらくじゃ」とご理解をされています。

人に小便をかけられるなどというのは、非衛生的という以上に、人間としての尊厳を否定される状況を表現しています。私たちは、面目とかプライドとか、そのような理由で他人と対立する時があります。複数の正義が対立するような時には「やられたら、やり返す」というのも、多くの人が同調する自然な感情だと思います。しかしそれでは、一層に感情的な対立の連鎖を生むことになります。

教祖様がそこを耐えることができられたのは、「神様は全てご存じ」という信心があったからだと思います。ただ辛抱するだけではなく、神様のお働きを信じるからこそ「戦わない正義」が成立し、結果として、人間としての尊厳も守られていくことになります。そのように考えると「世界真の平和」の実現とは、信仰の基に初めて成り立つものと言えるのではないでしょうか。まずは、そのような場面においても「にこりと笑っている」教祖様のお姿を、しっかりと見習わせていただきたいと思います。

教務総長 橋本美智雄

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