私の在籍する岡山教会の教会長夫人として、令和3年に生涯を終えた母は、神様の御用を生きがいとしていた人でした。令和2年10月、母が82歳の誕生日を迎えた日、子どもや孫たちが集まり、お祝いのパーティーが開かれました。ケーキの上に立てられたたくさんのろうそくの火を吹き消した母に「今の感想は?」と尋ねると、病の影響でか細くなった声で、「母ちゃんの倍も生きてしもうた」と答えました。
母の母・吉川チヨノは、中国東北部・ハルピン教会長であった夫・定治郎とともに、夫婦で御用にお使いいただいていました。しかし終戦を迎え、大変な混乱の中を本土へ引き揚げた無理がたたったのでしょうか、昭和24(1949)年、42歳の若さで亡くなりました。
チヨノは息を引き取る間際、病床で悲しみに暮れる子どもたちに向かって「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる」と語り、ほほ笑んだといいます。10歳の少女だった母は、そのチヨノの姿を見て、神様に対する迷いを持たずに済んだと申していました。
けれども母の心には、お道の御用に生き切った両親への敬慕と、戦争がもたらした不条理への無念とが、ない交ぜになったまま積み重なっていたように思います。そして、その整理のつかない心の奥底から湧き起こる、「難儀な人の助かりを願わずにいられない」という衝動に突き動かされるように、御用に向き合っているようにも見えました。
昭和34年6月16日、シカゴ大学の宗教学者・ビーバー博士が本部広前を訪れ、お結界に進んで、「日本の人々だけではなく、世界中の人々に対して、何かメッセージがありましたら聞かせてください」とお願いしたところ、三代金光様は「いろいろ願いがありますから、そのご都合を頂かれますようお願いいたしております」とお答えになったという記録があります。
戦争という、この上なく難儀な環境の中で少女時代を生きた母の心に願いが生まれ、終生、お道の御用にお使いいただいた道のりにおいて、神様はどれほどの「ご都合」をつけてくださったのでしょう。三代金光様のお言葉を思い直すたびにもったいなく、なおかつ、ここから先も神様に「ご都合」をつけていただかなければ立ち行かない私であると思わされます。
そして、今も各地で続く戦争、紛争などの不条理に巻き込まれた人々の心に、悲しみや憎しみの連鎖ではなく、助かりへ向けた願いが生まれるような「ご都合」が頂けますよう、金光様に神習い、願いを込めてまいりたいと思います。
金光図書館長 高橋浩一郎