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平成28年天地金乃神大祭祭典前の教話から
金原 光三 師(岡山・水島)
教えを守らせていただく
今から80年前の昭和11年4月21日から9月10日まで、16回にわたり、ご本部で御奉仕神習会が開かれました。これは、「ご本部広前のご奉仕に神習うことが本教の本来の御用である」という願いで開催されたそうです。その時に、三代金光様から数々のみ教えが下がりました。その一つが、「神様からお徳をいただくには、教祖様のご神訓を実行するほかには、なにも奥儀はありません」というみ教えです。ご神訓、み教えを実行する。信心する者にとっては、ごく当たり前のことです。それをわざわざ、教えてくださっているのです。
み教えを覚えたり、話したり、書き留めたりすることは大切ですが、そうすることで自分が信心ができたように勘違いしてしまうことがあります。また、何か困ったことがあると、人間考えで上手にやろうとか、知恵・分別をもって何とかしようとします。そうではなく、教えを実行する以外にない、それこそがお徳を頂くことであると、三代金光様は教えてくださったように思います。
三代金光様は、昭和11年8月5日に56歳のお誕生日を迎えられた翌日に、「天地のことは、人の力におよびませんでなあ。神信心には、なにごともしんぼうすることが、一ばんたいせつでございます。教祖様がなあ、欲をはないて、神様のお取次をお受けなされ、四神様が、おあとを十年、夜に日に欲をはなれておすわりなされ、早うおくにがえなされてなあ。それから、なにも知らぬわたくしが、すわりさえすればらくじゃ言うて、すわらしてもらいました。はじめのうちは、つろうてつろうて、よう泣きましたがなあ。親様の教えを守らしてもらうて、泣く泣くしんぼうしいしいに、すわっとりましたら、ほしいものも、考えることも、いつの間にか無くなりましてなあ。ありがとうてありがとうてならぬようになり、なんぼうお礼を申してもたりませんのじゃ。お礼のたりませぬおわびばかりしておりますが、もったいないことであります」とみ教えくださっています。
私がとりわけ大切にさせてもらっているみ教えであり、いろいろな頂き方ができるみ教えであろうと思います。ここでは三代金光様が、「親様の教えを守らせてもらうて、泣く泣くしんぼう」とおっしゃっているところを、私なりに頂かせてもらいますと、「守ったら楽ができた」とか、「物事がすいすいできていくようになった」とはおっしゃらないのです。教えを守るとは、それほどのことで、最初はありがたくなくても、「泣く泣くしんぼう」を続けながら守らせていただいた先に、「ありがとうてならぬ」世界があることを教えてくださっているように思います。
天地につながっていく実践
三代金光様の後を受けてくださった四代金光様について、弟の秋山佑一師が書かれたお話があります。少し長いのですが、かいつまんで読ませていただきます。
昭和38年4月13日に、三代金光様が70年にわたる現身のお取次の御用を終えられて、代替わりされて後のことです。四代金光様は、朝のお出ましにお宅の玄関でげたを履かれる時に、小さい声で「お世話になります」といつも言っておられました。また、眼鏡を外して拭く時にも、やはり小さい声で「ありがとうございます」と言うておられるので、ある日私が、「何を言うておられるのですか」と尋ねたら、「兄さんはなあ、お礼を申すことが足りんのじゃ。だからお礼を申す稽古をしておるんじゃ。人間はなあ、お世話になっておってもお礼を申すことが足りん。お礼を申すことが足りんところから難儀が起きてくる。教祖様は、『信心する者は、山へ行って木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれ』と教えてくださっている。信心する者は、ものを言わない物にでも自分がお世話になったもの、自分の役に立った物に対してお礼を申す心を忘れぬようにして生活していくことが、信心生活をしているということであるが、知らん顔をしている人が多い。人に頼んで何かをしてもらったら、日当を支払った上に頭を下げて『お世話になりました』と礼を言うておるのに、同じ世話になっても、ものを言わない物に対して知らん顔をするようでは実意とは言えないと思う。お互いに世話をしいしい世話になり、世話になりなり世話をしている関係であるのに、わしは世話をしてやっているが、お前の世話にはならんという人があるが、このような人は礼を言う心持ちにはなれない人であり、こういう考えの人は助からぬことになって難儀なことになってくる。天地の親神様はもとよりのこと、あらゆる人あらゆる物のお世話になって生かされて生きている命であり、生活であることを自覚して生きていくことが、教祖様のおぼしめしを頂いての生き方をしていることになると思う」と話してくださったことを思い出します。
教祖様が、「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい」とみ教えくださっていますが、父の後を受けた兄は、「私は父のようにはできません」と涙を流して申し、自らは本部広前の修行生としての自覚のもとにご信心を求め続けているなかで、「お世話になります」「ありがとうございます」と世話になるすべてにお礼を申すことを、人に聞きとれないくらいの小さい声ではありますが、声に出して稽古をしているのだと私に話してくれたのでした。
というお話です。代替わりという非常に大変な時のお話ですが、四代金光様は、「私は父のようにはできません」と涙を流しながら、それでも三代金光様の後をお受けくださいました。そして、その時何をなさっておられたのかというと、げたや眼鏡にお礼をしておられたということです。
正直なところ、最初は物にお礼をするということは事柄としては小さいことのように思い、天地に祈るようなスケールの大きな信心がいいように思っていました。しかし、そうではなく、四代金光様はげたや眼鏡を通して教えを実行しておられたのだということに、後から気が付きました。事柄の大小ではなく、実際に教えを実行するのか、しないのか、ということです。教祖様の教えは、天地につながっています。たとえ小さい事柄であっても、教えを実行することは、天地につながっていくことになります。それは、とても大きなことだと思います。
また、四代金光様は、「賜びしいのちあるありて今日も目ざめたり目ざめしことはありがたきかな」とお歌に詠んでおられます。「朝目が覚めてありがたいなあ」とおっしゃっておられるのです。朝の目覚めという経験は、どなたもなさっておられます。「今日はしてないぞ」という人はおられません。しかし、ありがたいことは分かっていても、実際には目が覚めた途端にその日のことを考えてしまい、その前にお礼を申すことが抜けています。信心をさせてもらう上では、「何事も経験しないと分からない」とよく言われます。私もそう思いますが、その経験というのは、生死に関わるような体験のことを考えていました。そういう経験も大切でしょうが、このお歌は、日常の何気ない経験でも、そのことをとおして教えを実行することこそが大切であると教えてくださっているように思います。
ありがとうてならぬ世界へ
教団設立の功労者である佐藤宿老は、最晩年の昭和17年1月21日に、「神を知り教をしるもまもらずば知らぬもおなじあはれものしり」というお歌を詠んでおられます。これを見て、私はどきっとしました。「神や教えを知っていても、守らなければ、知らないことと同じだ。それは単なる物知りでしかない」ということを、ご晩年に詠んでおられるのです。それほど大事なことであろうと思います。「実行する」という、たったそれだけのことを、こうして丁寧に教えてくださっていることを、ありがたく思わせていただきます。
三代金光様は、「すわりさえすればらくじゃ」との親様の教えを泣き泣き守られ、四代金光様は、「私は父のようにはできません」と涙を流されてなお、げたにお礼を申されました。教えを実行していくことは楽なことではありませんが、三代金光様は、「一か条にても、教祖生神様のみ教えを守らせていただければ、けっこうであります」と教えてくださっています。たった一つの「教えを実行する」という経験を積み重ねていく先に、「ありがとうてならぬ世界」があることを教えてくださっていることは、ありがたいことと思います。
『金光教教報天地』平成28年6月号掲載
当教話は動画も公開されています。
金光教Followers
【教話】「実行するほかにはなにもない」 | 金光教Followers
金原 光三 先生(岡山・水島) https://www.youtube.com/embed/3cqIKwq5k-0 4月7日、平成28年度天地金乃神大祭第2日が麗しく仕えられ、全国からたくさんの信奉者が参拝され…